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鈴木宏昭先生より『認知バイアス ー 心に潜むふしぎな働き』の献本をいただいた。

身近な事例を使って「思考の癖」に関わる心理学の基本概念について紹介している。鈴木先生の息遣いが直に伝わってくる訴求力のある語り口で、端的にいって面白いし、ところどころに強烈な社会批評が隠し味としてまぶされている。好評を博している理由の一端が理解できた気になった。今後、自分の大学の授業で新たに紹介していきたい話もいくつかあったので、以下、メモがわりに。

(第一章)注意と記憶のバイアス

画面切り替え型のチェンジ・ブラインドネス・逆向マスキング

画像の一部のみが瞬時に切り替わるタイプの有名な「change blindness」課題。この課題、授業でも何回か紹介したことがあるけど、毎回、答えがわかってしまった後では、むしろ「どのようにしてわからなかったのか」が全くわからなくなるほど自明な変化が生じている。しかし、そうとわかるまでは、やはり、全くわからない。この実験に関しては、この種の非対称性の構造が好きだった。

ところで、これは、画像と画像の間にマスク画像が一瞬挟まっていることが重要な要因で、このマスク画像が無くなれば「バカみたいに簡単になる」(p22)と書いてある。本当だろうか。実際に、個人的にマスクを消した映像で試してみたら、確かにその通りだった。これは、(サブリミナル画像を作るときによくやるテクニックである)「逆向マスキング」によって、直前につくられていた顕在イメージを上書きしてしまう作用が影響しているとのこと。「マスク画像を入れることにより、初めの画像の視覚像が不安定、あるいは不完全なものとなってしまう。」(P22)。

これまでの僕の授業では、マスクなしのバージョンでの切り替えを見せたことがなかった。ただ画像が切り替わるだけではこんなにも簡単な課題が、一瞬のマスクの挿入で超難問に転じてしまう。これはぜひ学生に味わってほしい。

(参考)僕が授業でやっている「意識の瞬き」の実験

運動誘発型ブラインドネス

背景で無数の点が蠢いている状態で、有限(例えば4つ)の静止点がある状況で、そのうちの1つの静止点を凝視すると、残りの静止点が意識から消失する。これも知らなかった。あまりに劇的で笑うしかない。以下に、デモがたくさん用意されている。5歳の子供といくつかやってみたが同じように錯覚しているもよう。すごく面白い。

[WEB] Motion Induced Blindness: Yoram Bonneh, Alexander Cooperman and Dov Sagi

これは意識と密接な関係のある注意のためのリソースが、運動点の認知に大方使われてしまうことが原因であると考えられる。「意識できるものは単一の事象」の原則を理解するうえで、極めて象徴的な体験なので、これもぜひ授業でやりたい。

(第三章)概念に潜むバイアス・(第四章)思考に潜むバイアス

社会的ステレオタイプ

「実は代表性ヒューリスティックは人種、国籍についても頻繁に生じている。これは社会心理学者たちによって、「社会的ステレオタイプ(social stereotype)と呼ばれている。(中略)国や人種で言えば、黒人というとリズム感、運動能力があると考える一方で粗暴とか、イタリアというと陽気だけれども軽いとか、そういうステレオタイプが日本人の中にある。これらは韓国人為従鬼ごくごくわずかなサンプルから作り上げられたものだ。そしてそれは差別や偏見のベースとなる。さらにメディアはこれに合致する人たちを登場させる。根暗なイタリア人、運動音痴の黒人がテレビに出ることはまずないだろう。すると私たちのとても偏見に満ちたステレオタイプはさらに強化されることになる。」(P72)

「社会的ステレオタイプは人種、国籍に限った話では無い。性についてもある。私たちが「男らしい」「男らしくない」などと判断するときには、「男性」のステレオタイプが強く働いている。現代の若者はどんなステレオタイプかはわからないが、私たちの世代(1950年代生まれあたり)だと、「強い」「でかい」「無口」「決断力」などの特徴を含むものとなっているように思う。」(P73)

個人的に、性の類型化の問題に強い関心がある。とりわけ、男は「男」らしく、女は「女」らしく造形されていく自然的な(物理的な)プロセスをどう記述するかに関心がある。この問題を考えるときに、(出発点として)現に「男」と「女」が、社会の中でどのようイメージで流通しているか、その「端的な事実性」に目を向けることが重要で、「社会的ステレオタイプ」という概念は、まさにこの水準の表象を指しているのだと思う。

帰属と対応バイアス

「合コンでコンクリートの話をするというのは、相当に変わった出来事である。この出来事の原因の候補の中で、静岡出身、AKB48のファン、一人暮らしなどはいずれもよくある珍しくないことである。一方、東大生というのは十分に珍しい。そうした次第で「東大だからあんな変わったことをする」という話が成立してしまう。そしてさらにおかしな東大生ステレオタイプが強化されることになる。つまり、変わったことの原因は、変わったこととされるのである。」(P76)

性差に関する「社会的ステレオタイプ」に由来する「対応バイアス」を考えてみると、男性(女性)が「社会的ステレオタイプ」と照らして男性(女性)らしいことをすると、それは男性(女性)という性に帰属させることになる。逆に、例えば、女性アスリートが、「社会的ステレオタイプ」に照らして女性らしくないことをしたら、「女性アスリート」とという珍しい属性に原因が求められるだろう。いずれにせよ、これらのことは、「社会的ステレオタイプ」の固定化に資することになる。

確証バイアス・第一印象

「自分が正しいと考えていることを確証してくれることに注意が向けられる」ことを確証バイアスという。先の「社会的ステレオタイプ」の固定化のプロセスも、それが正しいと信じるものにとっての確証バイアスとして記述可能と思われる。第一印象がなぜ大事かという問題を、この「確証バイアス」の観点から説明した箇所は、本書の中でも特に好きなところなので、以下で長めに引用する。

「第一印象がだいじだというのは、確証バイアスを考えてみると納得がいく。一度ある人を立派な人だと思ってしまうと、その人が立派なことをしている場面にだけ注意が向けられる。反対に別の人をダメなやつだと思うと、その人がダメなことをしている場面に注意が向けられがちになる。私も講義をしているとそう感じる。後ろの方でいつもスマホをいじっている学生がいる。当然彼への評価はとても低くなる。すると彼がある講義では真面目に受講していても、「何をいまさら」などと感じ、彼への評価を変えることはない。一方、前の方に座って一所懸命講義を聞き、ノートを取っている学生がいる。するとその学生が次回もまじめに講義を聞いていることに注意が向く。そしてその学生への評価が高まる。仮に打とうとするようなことがあっても、「今日は疲れているのかなぁ」などと考え、自分の仮説を覆そうとはしない。(中略)確証バイアスという人の思考のクセを考えると、評価を覆すのにはかなりの努力が必要であることがわかるだろう。」(P88)

この引用の後で、「確証バイアスは「予言の自己成就(自己実現)」と呼ばれていることとも関係している。」と書かれているように、第一印象で作り上げられた印象の正しさを証明し続けるためには、結果的に、現実の方を(仮説と合致するように)曲げてしまうことも厭わない。フェイクニュースの問題は、こうした観点から説明できる。

最後に、血液型の話も出ている。いつも僕がしているような話でもあるのだが、「確証バイアス」という概念を軸に説明することで、より理解が整理されるように思う。

(第五章)自己決定というバイアス

順序による選好バイアス

実際には全く同じモノに対する選好課題。左右に並べられた四足の女性のストッキングから、一番良いと思うものを選ぶ。左から順に、12%、17%、31%、40%となる。選好判断は順序の影響を受ける。口頭報告は全くの出鱈目になりがち。心理学の古典中の古典の実験ぽいが、恥ずかしながら、こんなシンプルで面白い実験の話があることを知らなかった。再現性が気になる。

[PDF] Nisbett, R. E., & Wilson, T. D. (1977). Telling more than we can know: Verbal reports on mental processes. Psychological Review, 84(3), 231–259.
単純接触効果

ロバート・ザイアンスによる単純接触効果(mere exposure effect)の最初の報告。

  • [HTML] 単純接触効果(ザイアンスの効果) |世界と日本のUX
  • [PDF] ZAJONC, R. B. (1968). ATTITUDINAL EFFECTS OF MERE EXPOSURE. Journal of Personality and Social Psychology, 9(2 PART 2), 1–27.

(第六章)言語がもたらすバイアス

ワインの味記憶実験(言語隠蔽効果)
[LINK] 言語隠蔽効果 ―ワインのテイスティング記憶実験―|味館 -味覚研究者(卵)の食ブログ-
言語は絵を下手にする

ハンフリーは1万5千年前から3万年くらい前にクロマニヨン人たちによって描かれた壁画も取り上げている。この一部はナディア(重度の自閉症児)が描く絵と驚くほど似ており、遠近感、躍動性を強く感じさせるものとなっている。彼らがどのような言語を話していたかはよくわからないのだが、現代人のように複雑な言語を操っていたわけでは無いだろう。ハンフリーは、こうした言語能力の低さが彼らの優れた絵を支えていると述べている。(P151)

こうした能力の背後には、写真的記憶というものが関係している可能性がある。これはまるで頭の中にカメラがあり、ある場面を写真をとるかのように記憶する能力である。ただこの記憶能力は、幼児期には比較的顕著だが、小学生あたりになると稀にしか見られなくなると言われている。ナディアもクロマニヨン人たちも、こうした能力を持っており、自分が見たことを写真のように記憶し、それを頭の中で再現し、それに基づいて描くことができたのではないだろうか。(P152)

(中略)発達や進化に伴って、そうした能力がなくなる、あるいは退化することを意味するのではなく、あくまで出番が少なくなるということを意味するからだ。どんなに言語が発達した人でも、人の顔や声は言語的に分析したりはしないし、そうしたことをしなくても上手に人の顔や声を認識できる。絵の下手な人の言語活動に関わる脳部位を刺激して、その働きを弱めると、上手なスケッチが描けるようになる、という研究すらある。だからそれは消えたり、薄れたりすることはないといえる。(P153)

(この辺の話は、もちろん何回か読んだことがあるのだが)認知の水脈としての「すでにある風景」の事例として捉えると、また新鮮な見方ができるような気がした。(僕の関心では)この文脈でいうと、例えば「幽体離脱」は、後天的に獲得した認知機能(自己に関わる高次の機能?)によって、その発動が阻害されている、というような視点をとることもできる(これはもちろん、全くの仮説にすぎません)。

写真記憶については、1年前に、以下のようなツイートをしている。もうすぐ、この子は6歳になるが、神経衰弱の最近のパフォーマンスは、このときと比べて、確実に落ちているように思う。

(第七章)創造(について)のバイアス

以下は、鈴木先生の創造(ひらめき)に対する考え方が圧縮的に記されているところ。イノベーションという語の濫用に対する辛辣な評価は極めて痛快。僕自身の創造に対する捉え方とも非常に近い。

ひらめきは学習、それも無意識的な学習だ、という反直感的な考え方を提示する。ひらめきは突発的なものであり、試行を積み重ねて徐々に上達するような学習とは無縁であると考えるかもしれないが、そうではない。無意識的システムが試行を重ねる、つまり学習を行うにつれ徐々に洗練されていき、結果としてひらめきを生み出しているということになる。(P181)

イノベーションマネージャーのような人が、実際に開発業務を行っている人を指揮するようなことになっていくのだろうか。(中略)正直言って無理なような気がする。創造の芽となる試みを(意識的にせよ、無意識的にせよ)正しく評価できる可能性は著しく低い。『イノベーションの神話』(オライリー・ジャパン)という大変に示唆に富む本を書いたスコット・バークンは、「すばらしいと思えるアイディアはすべて、無数の既存のアイディアからなっている」と述べている。その通りだと思う。無数の既存のアイディアを知らない人、その組み合わせ方を何度も試し失敗を続けたことのない人、こういう人にイノベーションを期待するのは難しい。(P186)

もう一つ考えてみたいことがある。それはイノベーションは繰り返し起こせるのか、つまりイノベーティブな人や組織というものが存在するのか、ということだ。さて日本の企業は最近創造性を失っているという話だ。(中略)しかし、絶えずイノベーティブな商品を開発し、成功を納めてきた企業はあるのだろうか。何年かに一度ずつイノベーションを起こしているなどというのは、イノベーションという言葉の意味を正しく理解して使っているとは言えない(あるいは創造ということに対する閾値が低すぎる)。(P187)

(第八章)共同に関するバイアス

共同を阻害する要因(ブレーンストーミングの罠)

ではブレーンストーミングによって生産性、多様性が高まるのだろうか。実はそうではないことがわかっている。1980年代よりも前に行われたブレーンストーミングの有効性を検証する22の実験中でブレーンストーミングが有効であったという研究は一つもない。そして80%以上の研究では、ブレーンストーミングがネガティブな影響を与えていることが確認された。(P202)

阻害要因は、「ブロッキング」「評価不安」「タダ乗り」が挙げられている。僕の実感として、大きな教授会とか、苦手な人がいる会議では頻繁に「ブロッキング」が発生する。ありえない結論に達しても、面倒なので黙っていることが多い。

責任の分散

1960年代のニューヨークで、キティ・ジェノビーズという若い女性が強制性交の上殺害された。この時30人以上のその地域の住民が自宅の部屋からこれを目撃していたが、誰も通報することはなかった。この事件は最初は都会人の冷徹さが原因であるかのように報じられた(これは3章で見た心理学的本質主義の表れである)。

しかしこれは責任の分散という社会心理学ではよく知られた心の働きの表れなのである。実験室てもこのことは確かめられている。実験では、インターフォンでつながった各部屋に実験参加者1名ずつを配置する。その後、そのうちの一人(サクラ)が発作を起こしたような悲鳴をあげる。この時、実験参加者が1名の場合はほぼ全員が隣に行ったり、声をかけたりという援助的な行動を行う。しかし実験参加者が増えてくると、援助的な行動は現象し、6名いた場合には、1/3の参加者はなんの行動も取らなかった。ここでは集団であることにより、責任の分散、つまり「誰かが助けるだろう」という心理が働いたのだ。」(P205)

これは、僕自身の実体験としても、非常にリアリティーがある。電車の中で、似たような状況に遭遇したことが何回かある。関連して、ナチスのホロコーストの残虐性がなぜ可能であったかという問題に関して、小坂井の論考を元に、官僚制による作業分担による「責任の分散」で説明がされている。非常に説得力がある。同様に、有名なミルグラムの実験の残虐性に関して、(これまでVRで社会性が簡単にまとえるという文脈でのみ注目していたが)「責任の分散」という観点で説明されているのは初めてみた。なるほど。

こうした非道の背後には分業による責任回避が存在している。つまり実験参加者は、実行を管理する白衣の実験者の命令に従っているだけであり、自分の意思で行っているわけではないという気持ちが強く働く。もし隣に白衣の実験者がいなければ、最初に述べたように150ボルト程度以上のショックを与える人はごく稀にしかいなくなるだろう。文業という形の共同にも、恐ろしい負の側面があるのだ。(P205)

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